主夫と翻訳

翻訳をしていると、日本語にするのが悩ましい言葉にたくさん出会います。検索すると、その言葉の訳語に悩んだ先人たちの声がたくさん見つかり、孤独な翻訳作業が少し楽しくなります。そして、自分もそんな言葉を残したくなりました。

"career year"はスポーツ選手の「最高に活躍したシーズン」

よく見る表現というわけではないのですが、

たまたまスポーツ選手についての話で

He was enjoying a career year.

という一文があって、この"career year"の意味がなかなかわかりませんでした。

 

"career" も"year"もよく使われる簡単な単語だけに、何を指すのかいろんなことが想像できてかえって意味をとるのが難しいのです。

辞書にもまったく出ていない表現でした。

 

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googleで”career year”を検索すると40万件ほどヒットするので普通に使う表現のようです。

どうもテニスや野球、アメフトなどプロ・スポーツ選手に使うケースが多く

その選手が今までのキャリアで最高に活躍したシーズンのことを指すようです。

 

日本語に訳せば

「最高のシーズン」

「選手人生で最高の年」

でしょうか。

 

さまざまな記事を読む限り、そんな使われ方をしていました。

 

having 200 hits in one season is widely considered a career year 

Ichiro was in the midst of a career year

John's career year came at the age of 28

"mind"は「こころ」や「精神」でなく「知性」──なぜなら脳にあるから

mind, heart, soul, spirit

はいずれも「人間のこころ/精神」に関係する言葉ですが、四つも言葉があるのはもちろんそれぞれに指すものが違うからです。

 

その中で、最も日本語と意味がずれているのが"mind"ではないでしょうか。

"mind"を英和辞書で引くと、

心、精神、知性、感情、意思、気持ち・・・

 

 とズラズラ訳語がでてきます。

 要するにこれは一語でピシっと対応する日本語がないことの証左でしょう(一方、ほとんどの場合"soul"は「魂」で一発OKです)。

 

 さて、私は"mind"は基本的に「知性」だと思っています。私が目にする英文では6〜7割方その意味で使われています。

 すなわち、"mind"という単語を目にしたら、自動的にまずは「頭を使う知的活動」がイメージされるのです。

 

 その理由は"mind"が脳に存在するからです。

 


 グーグルで"where is the mind"と検索してみてください。英語の"mind"は人間の「脳」(brain)にあることがすぐにわかると思います。

 

 一方、日本語の感覚だと、「こころ」や「感情」は〝脳〟ではなく〝胸〟にあるような気がしませんか?

「胸が痛い」

「胸に響く」

「胸を打つ」

「心臓に悪い」

というように、感情や気持ちはなんとなく「胸」にあるというのが暗黙の前提です。

(「頭にくる」という表現もあるので、線引きはそれほど厳密ではなさそうですが・・・)

 つまり日本語では、感情は胸(心臓)、知性は頭(脳)にある一方、英語では頭に存在するmindが知性と感情の両方を司ることができるようなのです。ただ、mindときたらまずは「知性」のほうを最初に思い浮かべるほうが結果的に正しい理解に結びつく確率が高いと思います。

 

 ちなみに、簡潔な表記が特徴(だと私は思っている)のCOBUILD英英辞書で"mind"を引くと、語義(小見出し)がなんと45項目もあります。英語でもそれだけややこしい言葉なんですね・・・

 

 

"a"か"the"か「なし」か──冠詞についての考察(1)

 Amazonで「冠詞」と検索すると、冠詞についての参考書や研究書がずらっ〜と登場します。

 それだけ日本人にとって「わかりにくく、奥が深い」のが冠詞なのでしょう。

 私も翻訳をするようになって、ずいぶん冠詞を意識するようになり、冠詞に悩まされたり助けられたりしてきました。

 それで思うのは

冠詞は日本語の「てにをは」に似ていて、いちおう後付けの理屈はあるけど最後は感覚

ということです。

 この「感覚」というのは、長期間、日常的に英語を話したり読んだりの繰り返しで自然に身につくものです。

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日本人なら誰でも

「僕は食べない」はいいけど、「僕が食べない」はヘン

「家に行く」はいいけど、「家へ行く」は珍しい言い方

とわかるでしょう。「理屈では説明できないけどヘン」というのは、その言葉が使われる実例を数千回、数万回、という次元で耳にしたことで身につく感覚なのです。

 

 それを理解したうえで、外国語として英語を学ぶための「後付けの理屈」を自分なりにまとめると、

 

"the"── いちばん簡単で、使われる理由がはっきりしている。

 1)世界に一つしかないもの  (the Internet)

 2)限定されるもの (the contents of this book) 

 3)既出で聞き手が知っているもの (the boy)

 4)抽象的に「◯◯というもの」を指す場合 (the dog is classified as ...)

 

"a"── 「同種のものは多数あるけど、その中で特別の意味はないけど具体的なひとつ」というのが原意

 1)特定しないひとつのものにつく (a boy) 

   ただし、少年が一人でなく二人なら"boys" 。機能面では"a"と複数形の"s"は同じ働きをする。

 2)"one"の代わり (a cup of coffee,  once a week)

 3)初登場のものを示すマーク (There was an old man. He.....)

   "A friend of mine..."という言い方をよく目にするのですが、以前は『なんで"My friend"と言わないであえて長い言い方をするんだろう?』と不思議でした。この理由はおそらく、「(初めて登場するけど)ある友達がいてね・・・」というニュアンスを出すために最初に"a"を付けたいのでしょう("a my friend"とは言えないので、"my"は後ろにまわって補足する)。いきなり"My friend...."と話し出すと「どの友達?」という唐突な感じがするからだと思います。

 <追記>

 ふと思い付いた理屈ですが、"A mother of mine"という言い方は普通しないですよね。誰でも母は一人しかいないので、最初から"My mother..."で違和感はないのです。ところが最初から"My friend..."と話し出すと、暗に友達は一人しかいないというニュアンスになります。(例えば結婚して義理の母=二人の目の母がいる、などという文脈なら”a mother of mine”も使います。例えば父親に対して"Any wife of yours is a mother of mine"など)

 

 「なし」──理屈というより慣習なので難しいことが多い

 1)例外的な不可算名詞(uncountable)の場合 (I need some information)

  2)慣用句に近い決まった表現の場合 (go to school , by car, play chess)

 

 

 さて、最近は時間があるので話題の本を読んでいます。

 

The Inevitable: Understanding the 12 Technological Forces That Will Shape Our Future

The Inevitable: Understanding the 12 Technological Forces That Will Shape Our Future

 

  多くの名著がそうであるように、複雑で抽象的なことを非常に簡単で読みやすい英語で書いてあります。すでに日本語訳(『インターネットの次に来るもの』)が出てますが、あえて原書で読むのもいいかもしれません。

 

 この本の43ページに、まさに冠詞の使い方の標本みたいな一文があったので引用します。AI(人工知能)について触れている文脈なのですが、

they (=AIs) can accomplish tasks ── such as playing chess, driving a car, describing the contents of a photograph ── that we once believed only human could do...

『AIは、チェスの対戦や自動車の運転、写真の内容説明といった、かつては人間にしかできないと思われていた作業をやってのけることができるのだ』

・チェスの無冠詞は「決まった表現」

・"driving a car" は、どのクルマと特定していないから"a"

・"the contents of a picture"は、どの写真でもいいので"a"、でもその写真の中身は一つに限定されてるから"the"

 

なのだと思います。