主夫と翻訳

翻訳をしていると、日本語にするのが悩ましい言葉にたくさん出会います。検索すると、その言葉の訳語に悩んだ先人たちの声がたくさん見つかり、孤独な翻訳作業が少し楽しくなります。そして、自分もそんな言葉を残したくなりました。

とても重要なのに、学校で習う英語では決して教えてもらえないこと(3)

f:id:milkra:20141108041550g:plain

 

 日本語は、どんなに長い文章でも最後の数文字で意味が全部ひっくり変えることが普通にあります。これは通常の英語ではありえません。

 例えば次の文章は最後の三文字が文全体の意味を一〇〇%左右します。(例文なので書いた内容はウソです・・・)

 

 好きな女性に好意を伝える時はしっかり目を見て話すほうが成功率が高いと言われるが、実際に自分の経験から考えると、それはだいたいにおいて正し[い。 / くない。]

 

 この特徴のせいで、日本語の文章を読む時は

 

最後のマル(。)を見るまで安心できない

 

のです。心の中で「まだどっちか分からないぞ・・・」と結論を保留しながら読み進めないといけないのです。だから、マル(。)に出会うとホッとします。

 

 英語では、このような文章構造はありえない(否定形はなるべく文頭のほうにもってくる。とりわけ一文が長い文章では間違いなくそうする)ので、ピリオドを見る前からすでに内容が100%確定した状態で読み進められます。九回裏の大逆転はあり得ないのです。

 

 端的な例が、「彼は〜しないと思う」と言う時には

 

I think (彼は〜しない)

 

ではなく、

 

I don't think (彼は〜する)

 

という形にするのが自然なのです。それは「否定形はなるべく前にもってくる」という大原則があるからだと思います。

 

 このため、(日本人の感覚からすると)いつまでも文を結ばないで、カンマや分詞構文やらでズルズルと長ったらしく一文で言葉をつなげていく書き方もよくあります。

 英語で読んでいる限り、それはまったく問題なくスルスルと頭に入ります。だって「最後にNOTが出てきて内容が180度ひっくり変えるかも」なんて可能性を頭のスミに留めておく必要はないんですから 、安心して読めるのです。

 

 

で、ここからが本題なのですが、

 

「英語の一文は必ず日本語訳でも一文にすべき」

 

という考え方があります。

  私ははっきりとこの考え方には反対です。

 なんと言っても上記のような英語と日本語の構造上の違いがあるのだから、長い英文をダラダラと一文で訳していくと、読み手にしたら息を止めて長く潜水しなければならないような息苦しさが生まれてしまいます。読みにくいのです。

 

 訳文の読みやすさを犠牲にしてでも、英語の一文を日本語でも一文にすべきケースがあるとすれば、それは形式や文体に意味のある小説・詩のたぐいの翻訳でしょう。作家の文体を殺さないことに重要な意味がある場合ですね。その種の翻訳は私の能力を超えているので何も言えません。

 しかし少なくともビジネス書の翻訳については、文体や文章スタイルよりも日本語の分かり易さを優先すべきだと思うので、自分が翻訳する時は英語の一文を二文や三文にどんどん分割して訳しています。